“海は好きだけど沖縄問題は勘弁”な全ての人へ――。おばぁのサンマ裁判をポップに描く「サンマデモクラシー」山里監督の願いとは2021/07/03
沖縄史に埋もれた伝説的サンマ裁判をテーマに描くドキュメンタリー映画「サンマデモクラシー」が、7月3日より沖縄・桜坂劇場にて先行公開、7月17日より東京・ポレポレ東中野ほかで全国順次公開される。本作は「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」(2020年)に続く、沖縄テレビ放送制作のドキュメンタリー映画第2弾。監督は、「ちむぐりさ〜」でプロデューサーを務めた山里孫存だ。そんな山里監督に、作品への思いを聞いた。
沖縄がまだ日本でなかった頃、人々が訴えたのは「民主主義とは?」という単純な問いだった
戦後のアメリカ占領下の沖縄を舞台に、自治権をかけ統治者アメリカに挑んだ人々の姿を描き出すノンストップドキュメンタリーとなる本作。その運動のきっかけとなったのは、魚屋のおばぁ・玉城ウシが起こした“サンマ裁判”だった。当時の高等弁務官のポール・W・キャラウェイは帝王と恐れられ、布令を何度も発令し沖縄の民衆を縛り付け、本土復帰運動をも弾圧した人物。そんな彼を相手に、物品税法を定めた高等弁務官布令17号で課税対象とされていないサンマに関税がかけられているのはおかしいと声をあげたウシは、大きなことを言うことから“ラッパ”と呼ばれた弁護士・下里恵良と共にアメリカに立ち向かっていく。さらに、米軍が最も恐れた政治家として知られる通称・カメさんこと瀬長亀次郎にも焦点を当て、民主主義をめぐる戦いが映し出される。ナビゲーターは、うちな〜はなし家の志ぃさー、ナレーションは川平慈英が務める。
ウシとの出会いは、最初の取材から1年後のこと
――この作品を作ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
「ある日、『僕の父は、沖縄復帰運動の起爆剤となったサンマ裁判を裁いた裁判官でした』という友人のFacebookに投稿を見たんです。それで『サンマ裁判? 何それ?』って。僕は平成元年に沖縄テレビに入社して以来ずっと制作に携わっていたので、沖縄のことには詳しいつもりでいたのですが、初めて聞いた言葉でした。それからすぐに調べてみると、この裁判がきっかけとなり、いろいろな大衆運動が生まれ発展していき、時代が動いていったことを知りました」
――最初はウシさんが主人公ではなかったのだとか。
「はい、当初は裁判官たちの物語として取材を進めていました。ですが、その1年後に『民教協スペシャル』(※)に出すにあたり、さらに詳しく調べようとしていたところ、サンマ裁判は2回あることが分かって。その時に、ウシというおばぁがサンマ(に関する問題)を訴えたと分かり、これは面白いなと(笑)。そうして彼女中心へと舵を切っていくことにしました」
(※):年に1度開催されるテレビドキュメンタリーの企画コンペ。日本中からエントリーされた作品の中から最優秀企画に選ばれれば、番組の制作費が出て、全国放送される。
――ウシにラッパにカメ…と、偶然にもそれぞれの登場人物にあだ名がついているのが面白いですよね。
「取材していく中で役者がそろっていく感覚はありましたね。でも、だいぶ時間がたっているので、ウシおばぁのことを直接知っている人がいなかったんです。当時の彼女がどんな思いだったのか知りたいのに、それを語ってくれる人は1人もいない…どうしてもドキュメンタリーとしてその部分が弱くなってしまうことに悩みました」
――それで、物語を落語ベースに?
「ある日、構成作家の方から『目黒のさんま』というはなしを教えてもらったんです。世間知らずのお殿様が目黒で食べたサンマに魅了されるという珍騒動、という有名なネタなんですが、本作もサンマをめぐる騒動なので、その提案で光が差した感じがして…。落語なら、ウシの数少ないエピソードを想像で補いながらイメージできますし、彼女の人物像を落語家さんの力を借りて表現できるのではないかと思ったんです。それで、すぐに志ぃさーさんにお願いしました」
――確かに、落語によって物語が一段とテンポ良く、分かりやすく進んでいく印象があります。志ぃさーさんの背景が海になったり暗くなったりと、場面によって変わっていましたが、あれには何か意図があるのでしょうか。
「落語ってお客さんが背景を想像する話芸だと思うのですが、映像作家としてはずっと高座の背景のまま進めるのではなく、せっかく沖縄なので風景も盛り込みたかったんです。そこで、冒頭では読谷村の海をバックに話してもらうことにしました。今でこそ美しい海ですが、戦争当時はそこを埋め尽くすくらい多くの軍艦がいて、一斉に艦砲射撃が始まって…と想像したら一気に引き込まれるんじゃないかと。他にもいろいろな案が出てきて、沖縄が背負っている歴史を想像させるような背景になったんですよね。志ぃさーさんは暑がっていましたけど、合成ではなくあちこち連れ回してやっていただきました(笑)」
――ウシおばぁの家族にまつわるエピソードも、海を背景に語られていました。
「実はあのシーン、テレビ版には入っていないんです。というのも、放送が終わった後に、ウシと血のつながりがある魚屋さんにごあいさつに行ったら、『思い出したことがあるのよ』ってウシの妹さんがフィリピンに嫁いだ話や、ウシの娘さんが5歳で亡くなって、ウシが赤い雨靴を買ってあげたかったと後悔していたエピソードなどを教えていただいて」
――そうだったのですね。
「そういった新たなエピソードの掘り起こしがあったので、映画化したいと思ったんです。他にも、テレビでは尺の関係で入れられずに心残りだった牧師さんのエピソードも映画版には追加できましたし、下里さんの取材も深掘りすることができました」
沖縄の現状が伝わらない…中央との“意識の差”
――戦後の沖縄史という硬派なテーマでありながら、時に面白おかしく描かれているのが印象的でした。
「僕自身、ドキュメンタリストと言われるのがこそばゆくて(笑)。これまで、コントや音楽などいろんなジャンルの番組を作ってきたので、面白く伝えるというのは僕の中で当たり前のスタンスなんです。それに、沖縄映画というと、『ごめんなさい、ヘビーだわ』と敬遠されがちじゃないですか。なので、全国展開するにあたって、『海は好きだし毎年遊びには行くけど、沖縄問題と言われると勘弁』となるようなタイプの人にも見てほしいという思いがあって。とにかく見やすく、楽しく面白く作って、その先に何か感じてくれることがあればいいなと思いますね。そうしたら、次の日からは沖縄から届く1分のニュースでも、見え方が変わってくるんじゃないかと思うんです。まずは沖縄のことに興味を持ってもらえれば、“自分ごと”に感じてもらえるかなって」
――「ちむぐりさ〜」にも、“自分ごと”として捉えてほしいというメッセージが訴えられていましたね。
「あの作品は、たくさんの人に届いたなという手応えがありました。今回は第2弾なので、さらに輪をかけて、純粋に面白そうだと思って劇場に足を運んでもらいたいですね」
――そもそも山里監督が沖縄の問題をテーマに発信しようと思われるようになったのは、どうしてですか?
「僕はテレビマンとして楽しいことばかりを一生懸命やってきたタイプだったので、基地問題などは大事だと思いつつ、踏み込むつもりはなくて…。でも、ちょうど沖縄戦から60年という節目の直前の2004年に報道部に異動になって、いや応なく沖縄が抱える問題や事件・事故に触れることになったんです」
――異動された後の05年には、「むかし むかし この島で」というドキュメンタリーを作られていますよね。
「これが自分なりに沖縄戦と向き合うタイミングでした。アメリカ軍が戦争をしながら撮っていた沖縄戦の記録フィルムを、“映っている人は誰か”とか、“この場所はどこか”と、検証をして証言を集めたんです。それまでは沖縄戦のイメージ映像としてしか使われていなかった映像に命を吹き込んでいくような作業だったのですが、そこから意識が変わりました。そういった負の部分もちゃんと理解していかないと、今置かれている沖縄の現状を本当に理解できないんじゃないかと思い始めて…」
――そうして活動を続けてこられた中で、印象的だったことはありますか?
「一番ショックで現実を突きつけられたのは、報道部異動直後の04年に起こった沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件です。当時中継車に飛び乗って現場に行ったら、後にも先にもあんなに衝撃的な現場はないというくらいの大事故で、戦場みたいになっていたんです。米軍が封鎖する中、報道陣が取材をさせろとせめぎ合っていて…。その中で『これは当然、全国放送の夕方のニュースのトップで生中継だろう』と思って準備をしていたら、突然東京から『いらない』と連絡がきました。結果、映像だけ送ることになり、40秒くらいのニュースになったんです。こんなに衝撃的で今もまだ煙を上げているような状況なのに、全国ニュースにならないんだと思いました」
――中央とのギャップ…。当時のトップニュースは何だったのでしょうか。
「ナベツネ(渡邉恒雄)の読売巨人軍オーナー辞任のニュースでした。沖縄の事件はあっという間に流されて、東京の友人からは『チャンネルをどれだけ回してもそんなニュース出てこない』とメールが来たりもして、リアルにギャップを感じましたね。結局、『それで何人の人が死んだのか』という意識がきっとあるのだと思います。悪気があるわけじゃないんですよね、きっと。『よかったね、人、死ななかったんだね』という話で済んでしまうというか…。でも沖縄側からしたら、『じゃあ人が死んでた方がよかったのか』という気持ちにすらなってしまうんです」
――命に関わる問題なのに、人ごととして済まされてしまう…。
「オスプレイが民間地に墜落した時も同じような感じを味わいましたし、『いつか大惨事が起きてからじゃ遅いですよ』というメッセージはずっと出しているのに、このままだと本当に人が犠牲にならないと、みんな気付かないんだろうなと感じます。04年の事故以来、状況は変わらないですね。沖縄では大事件だけど、中央ではなかなか取り上げてもらえない…。だからこそ映画を見て、まずは沖縄のことをもっと知ってほしいです。そうして好きになって、自分のこととして捉えてもらいたいですね。これは沖縄テレビの先輩たちから引き継いだアプローチです」
――本作の見やすさが、そのきっかけを与えてくれる重要なポイントになっていると思います。では最後に、今後の展望を教えてください。
「テレビ番組として作ったものを劇場版にするノウハウがつかめてきたので、他局に負けないように今後も作品を生み出していきたいです。また、本作はテレビ局じゃないと作れなかった作品だなと実感していて。1959年の開局以来、60年以上にもわたって沖縄テレビが追いかけてきた沖縄問題の映像がふんだんに残っていたので、作品にそれを盛り込めたんですよね。例えば、亀次郎のパートは06年の『カメさんの背中』というドキュメンタリーの映像をほぼ使っています。そんなふうに年数がたっても映像を再利用できることを実感したので、過去の作品も見直していきたいです。僕が作ってきた作品の中にも、新たなアプローチを加えたら劇場版にできるものが眠っているかもしれません。あとは、後輩たちも意欲的に作品を手掛けているので、いろいろなことに挑戦していけるのではないかと思っています」
――楽しみです。ありがとうございました!
山里監督も語るように、「沖縄問題はちょっと…」と敬遠してきた人にこそ見てほしい作品だ。志ぃさーによる軽やかな語りで進む物語は見やすく、激動の時代の沖縄史がすんなりと頭に入っていくだけでなく、当時の人々の思いに胸を打たれる場面も数多い。また、川平慈英の語りにも注目だ。ちなみに、ある場面では監督自らも登場しているので、そのシーンを探してみるのも面白いだろう。過去の出来事をエンターテインメント色豊かに描いた作品であるのと同時に、現代でもなお解決されていない沖縄問題を考えるきっかけになるであろう本作を、ぜひ自分の目で確かめていただきたい。
【プロフィール】
山里孫存(やまざと まごあり)
1964年、沖縄県那覇市生まれ。琉球大学社会学科でマスコミを専攻。89年、沖縄テレビ放送入社以来、バラエティーや音楽、情報番組などの企画・演出を手掛けるなど、数多くの番組を制作する。その後、報道部に異動し、2005年に制作したドキュメンタリー「むかし むかし この島で」では多くの賞を受賞。ドキュメンタリー「戦争を笑え 命ぬ御祝事さびら!沖縄・伝説の芸人ブーテン」(06年)では、放送文化基金賞ドキュメンタリー番組賞・企画制作賞を、「カントクは中学生」(10年)ではギャラクシー 賞・選奨を受賞した。現在全国公開中の映画「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」ではプロデューサーを務めた。
【作品情報】
映画「サンマデモクラシー」
7月17日(土)ポレポレ東中野ほか全国順次公開
7月3日(土)より沖縄・桜坂劇場にて先行公開
公式サイト:http://www.sanmademocracy.com
取材/文・藤田真由香(フジテレビ担当)
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