武田鉄矢が語る!「プロゴルファー織部金次郎」の世界、海援隊50周年を迎えて“よく語り合うようになった”今とこれから2024/05/29
BS松竹東急では、ゴルフメジャー中継のタイミングに合わせて、武田鉄矢が原作、主演、脚本、監督(2~5作)を務めた“下町人情ゴルフ活劇”映画「プロゴルファー織部金次郎」シリーズ全5作を一挙放送。さらに、音楽ライブとも連動して、2023年に開催された「海援隊50周年コンサート ~故郷 離れて50年」も届ける。今もなお歌手、俳優として精力的に活動する武田に、「織部金次郎」や海援隊への思いを語ってもらった。
――「プロゴルファー織部金次郎」シリーズで、武田さんは原作と主演、監督も務められていますね。
「はい。私が40代前半、ドラマ『101回目のプロポーズ』(フジテレビ系/1991年)でトラックの前に飛び出す恋愛熱中男を演じた後に、この物語に取り組みました。1作目は監督が別にいましたが、いろいろあって結局自分でやることになって。もう自分がやらなきゃ収まらないところまで来ていたのでしょうね。監督の才能はないですが(笑)」
――「織部金次郎」シリーズは、どういうところから発想されたのですか?
「織部金次郎はほとんど勝てず、女房、子どもに逃げられた貧乏プロゴルファーなんです。こんなパッとしない、景気の悪いプロゴルファーをなぜ描いてみたかったのか、いまだに分かりません。ただ『刑事物語』シリーズ(82~87年)の片山元もそうですが、織部というのは負けと上手に折り合いをつけて、人生の中から負けの意味をつかみ出すことで自分のエネルギーに変えていく人なんですね。その負け方というものを、ゴルフという、自分からは最も遠い競技の中で描きたかったんじゃないかなと。今思えば、そんな感じです。最初に考えたのはアメリカ映画の『フィールド・オブ・ドリームス』(89年)でした。いわゆる幽霊ストーリーみたいな。スポーツで気分が高揚すると、何かが憑依(ひょうい)したり霊がとりつくような感覚がありますよね。アスリートの人は『ゾーンに入った』という別の言い方をしますが。そういう話をプロゴルファーの中嶋常幸さんから聞いたんです。中嶋さんはゴルフの生々しい話をいくつも聞かせてくださいました。ゴルフの試合においてプロゴルファーたちの精神面での戦いが、いかにすさまじいか…という話とか。ある若いプロゴルファーと回っていたベテランのプロゴルファーは、いつも自分が打つと走り出すらしくて、そうすると若い人たちも走らなきゃいけなくて、そうやってペースを崩していくという。そういう細かいメンタルの決闘、駆け引きなんですよね。また、中嶋さんのお母様が危篤か、あるいはもう亡くなった後の最初のトーナメントに出た時、母親のことが気になって全然集中力がなかった。でも、そんな時に限って調子がいいんですと。ボールを打って『曲げた~』と思ったら奇麗に木に当たって出てきたり。ゴルフは半分運がありますよね。母親に気持ちが向いてる時にゴルフをやって、“何でこんなに調子いいんだ?”という不思議な憑依体験、いわゆるゾーンに入っていた。そして17番のグリーンにオンしてパッティングに入ったら、そこにお母さんがおられたんですね。これは幻覚だと思いますが、その姿を見ないように努力して『これを入れたら優勝できるから。お袋、ごめんね』と母の幻影に背中を向けたという。これは『フィールド・オブ・ドリームス』に匹敵する、霊がかりの話ですよね。スポーツの極意というか実に深い部分であって、こういうことを映画で描くといいのではないかと。それで“オリキン”では、お世話になったゴルフ好きの暴力団の親分が亡くなった後、織部が試合をしていたら彼が応援に来ていたというシーンを思いついたんです」
――そういう経緯で作られたんですね。
「負けを自分のものにして、負けから自分の人生を作っていく…そういう生き方もあるんじゃないかと。そうした思いが“オリキン”の5作になっていますが、これは昭和の歌の戦いの中で負け続けた私にしかできません(笑)。たとえば谷村新司と競い合ったJR(当時は国鉄)のCMソングでは、『思えば遠くへ来たもんだ』(78年)を作って絶対勝てると思っていたんですね。なのに彼の『いい日旅立ち』(78年)に負けちゃって。彼の歌はいまだに新幹線で流れています。完璧にぶっ飛ばされたのは、『Y.M.C.A.』(歌:ヴィレッジ・ピープル/78年)に対抗して『JODAN JODAN』(79年)を出した時ですよ。まぐれで勝ったこともあるけど、大半が昭和歌謡の天才たちに蹴っ飛ばされていくわけですよね。小椋佳が出てきて、優しい歌声でヒットを飛ばした時はむかっ腹が立ってね。後に『贈る言葉』(79年)で、『求めないで優しさなんか』と歌ったんです。あれ、実はそういうことなんですよ。私らしいでしょ(笑)」
――「織部金次郎」シリーズで監督を経験されて、後々役に立ったと感じられたことはございますか?
「やはりカメラの横から俳優の芝居を見るのと、自分がカメラに撮られる側にいるのとでは、ものすごく世界の違いを感じました。監督はやはりきつかったです。『織部金次郎』の時は、いいセリフを思いついたら全部周りの人に配っていました。監督をやっていると、自分よりも周りの俳優さんのいいセリフに酔うんですよ。だから人にばかばかしいセリフをあげちゃう。そこに監督のかいを感じるんですよね。『俺はあの人を上手に使った』ということが喜びになってね。仮に俳優は川の世界、監督は海の世界だとしたら、それらをサケみたいに自在に泳ぐのは無理ですね。塩分の濃度が全く違うんです。でもそういうことを学んで、『織部金次郎』が終わった後は、“この人もきついだろうな”と思って、あまり監督に食ってかからないようになりました(笑)」
――監督の気持ちが分かるようになったんですね。
「そうですね。私の尊敬する山田洋次監督は、時々せこいことをおっしゃるんです。ある俳優が別の仕事で東京に帰ったりすると、そのマネジャーに『帰って。もう仕事ないから』と。せこいなぁと思ったけど、それはカメラの向こう側に行くと分かります。それと監督をやっていると、売れているタレントが嫌いになりますね。『何時までにアップしてもらわないと』と言われるとムカッときて。売れていなくていつまでも現場にいるヤツがだんだん好きになってくる(笑)。私が天気のことで悩んでいるのに、コロッケから『営業行かなきゃ』と言われた時は、後ろから首絞めてやろうかと思いました(笑)。でも本当にいい勉強になりましたよ。それまでの私は横着なタレントで、『3年B組金八先生』シリーズ(TBS系/79年~2011年)では脚本家の書いてないセリフを40分くらいしゃべってましたもんねぇ。最低最悪の俳優ですよ(笑)」
――「織部金次郎」シリーズの5作について、特に注目して見てほしいポイントは?
「ゴルフはかなり運が混じり込んでいるスポーツだと思いますが、その運とどうやって折り合うか、という部分ですかね。勝てないプロゴルファーの織部金次郎が運に身を任せるわけですが、その身の任せ方は、実は私たちにとって一番大事な人生に対する態度ではなかろうかと思います。運についてはよく考えるのですが、芸能人にも似ていて。何かできっかけをつかまないと、才能を発揮する場所すら得られない。その運をどうやって捕まえるか、あるいは運とどう付き合うか、そういうことをプロゴルファーのポジションから考えてみたかったんです。この頃一番魅せられていたセリフで『人生、8勝7敗でいい』というのがあります。1勝だけ勝ち越しておけば、お前はそこにいていいのだと。仮に2勝3敗でも負けが込んでいると思わず、それを運がいいと思って生きていく。そういうことが大事で。運の話で言うと、『織部金次郎』シリーズに出た人はみんなツイているんです。財前直見もコロッケもずっと活躍しているし、阿部(寛)ちゃんは日本を代表する売れっ子俳優になりましたから。俺以外、みんないいじゃん(笑)。阿部ちゃんはコミカルな芝居をやり始めてから売れたけど、そもそも彼に喜劇的な要素を仕込んだのは『織部金次郎』じゃないかな」
――ちなみに、「織部金次郎」シリーズの新作を作る予定はございますか?
「『織部金次郎』シリーズは正直もっと作りたかったし、逆に年を取ってからもできますからね。アイデアはあるんです。お亡くなりになった財津一郎さんが『織部金次郎』第6作のストーリーをプレゼントしてくださったこともありました。ゴルフが大好きだけど認知症になって、何をやっているのか分からないおじいさんがいるんですね。あるホールで第2打を打ったら、ぴったりバーディーチャンスにつけて。年を取った織部が応援してあげると、バーディパットを決めてしまう。そういう“老いとスポーツ”みたいなテーマで『織部金次郎』を作ってみたいですね。これは先ほどの中嶋さんとは別の話だけど、小さな町のレッスンプロが勝ち残り戦のゴルフトーナメントに出るんです。まぐれでどんどん勝っちゃうんだけど、貧乏だからゴルフウエアを持っていない。そしたら、先に負けたプロがゴルフウエアを置いていってくれて、涙を拭きながらトライしていく話とか。それからシニアでずっと勝てなくて、60歳を過ぎて初めて優勝した人がいました。賞金50万円と、新潟の大会なので米一俵をもらうんですね。その副賞でもらった米で作ったご飯を家族そろって食べて、奥さまから『おめでとう』と言われて泣いてしまう。そういう1勝までの物語がいいなぁと思って。そうやってネタはいろいろ思いつくんですよ。いい映画会社があればね(笑)」
――6月9日には海援隊の50周年コンサートも放送されますが、最近の海援隊の活動についてもお聞かせください。
「楽しくやっています! メンバー3人のうち、私は心臓病、サイドギターの中牟田俊男は食道がんと2人が外科手術を経験して、高齢者の仲間入りです(笑)。それでも生き残って、先日も旅をして地方で歌ってきました。50年を過ぎて、段々楽しくなってきましたね。ジジイになったおかげで、メンバー同士であまり罪のこすり合いをしなくなりました(笑)。昔はよくやっていたんですよ。ライブが終わった後、中牟田に『ミスしたな、お前』なんて言って。千葉(和臣)のことも叱っていました。でも、最近はあまりけんかしないですね。先日ライブをやった時に、中牟田のギターのフィンガリングが異様だったんです。それで演奏を止めて中牟田に『どうした?』と聞いたら、『つった』と。会場は割れんばかりの拍手喝采。これ、最近一番ウケたネタです(笑)。もう、それが笑いになるんですよね。たとえば年を取ってジジイになった落語家は、何を言っているのか分からなくても面白いじゃないですか。われわれもその域になったのかなと思いました」
――海援隊のデビュー50周年を迎えて、ますますグループの雰囲気がよくなっているんですね!
「はい。よく3人で語り合うようになりました。旅先で1杯飲みながら、昔のことを語り合うんです。九州時代はTULIP、井上陽水、甲斐バンド、南こうせつ、 さだまさし、吉田拓郎といったライバルたちがいて、ギスギスと団塊の世代らしく、ステージで押し合いへし合いをやっていました。海援隊なんて、いつ潰れてもおかしくないグループだったのに、よく生き残ってこられたなと。そうしたら千葉が『俺たちは音楽で負けても、個性では負けなかった。なぜなら武田さんの芝居っけがあったから。それは同世代のライバルたちの中にはなかった』と言うんです。そうか、みんなは歌唱力で勝負していたのに、俺だけ歌唱力ないんだなと(笑)。俺だけ芝居で歌うのよね。だから田舎のおっかさんのことを歌って一人芝居やると、誰もついて来られない。それと中牟田が『俺たち、昭和歌謡の影響を相当受けているぞ』と言っていて。昔は『影響を受けた音楽は?』と聞かれると、だいたいビートルズと言っていたんです。“『母に捧げるバラード』は、どうやって思いつきましたか?”と聞かれて、“ジョン・レノンの『マザー』を聴いて思いつきました”と答えていた。そしたら井上陽水が『うそだ』と(笑)。本当のこと言うと、あれは森進一さんへの対抗馬なんです。普通『傘になれよ』なんて立派なこと言いませんよね。森さんのお母さんはともかく、うちのお袋はそんなこと言いません。では何と言ったかと言うと『働け』と。『遊びたいとか思ったら死ね。それしきの問題だ、お前の命なんざ』とね。今で言うとパワハラだよね(笑)。だけど昭和の時代は通じたのです。つまり俺たちの中には、相当昭和歌謡が流れ込んでいるんです。特に影響を受けたのは美空ひばりさん、北島三郎さん、三波春夫さん。この方たちがずっと自分たちの音楽の底流に流れ込んでいるのです。全員お芝居のできる、歌を演じられる方たちです。こういう昭和歌謡、それも戦後歌謡がわれわれの体の中に相当流れ込んでいる、それをこの年になったら正直に認めよう、そのへんのことを歌にしようと話しました。たとえば三波(春夫)さんの『一本刀土俵入り』をギター2本のカントリーにアレンジしてやってみる。そうすると、自分たちの老いにも意味が出てくるぜと。今この年になって、やっとそんな話で盛り上がるようになってきましたね」
――貴重なお話ありがとうございました!
【プロフィール】
武田鉄矢(たけだ てつや)
1949年4月11日生まれ。福岡県出身。72年、フォークグループ・海援隊のボーカルとしてデビューし、「母に捧げるバラード」「贈る言葉」など数々のヒット曲を生み出す。山田洋次監督の映画「幸せの黄色いハンカチ」(77年)で俳優デビュー。以降、ドラマ「3年B組金八先生」シリーズ(TBS系)、「101回目のプロポーズ」(フジテレビ系)、映画「刑事物語」シリーズ(82~87年)、「プロゴルファー織部金次郎」シリーズ(93~98年)など多くの代表作を持つ。現在、「おふくろ、もう一杯」(フジテレビ)、「武田鉄矢の昭和は輝いていた」(BSテレ東))出演中。
【番組情報】
「プロゴルファー織部金次郎」
6月4日 午後8:00〜10:07
「プロゴルファー織部金次郎2 パーでいいんだ」
6月5日 午後8:00〜10:06
「プロゴルファー織部金次郎3 飛べバーディー」
6月6日 午後8:00〜10:06
「海援隊 50周年コンサート ~故郷 離れて50年~」
6月9日 午後7:00〜9:15
「プロゴルファー織部金次郎4 シャンクシャンクシャンク」
6月10日 午後8:00〜10:04
「プロゴルファー織部金次郎5 愛しのロストボール」
6月11日 午後8:00〜10:04
※BS松竹東急は全国無料放送・BS260ch
取材/TVガイドWeb編集部、水野幸則 文/水野幸則 撮影/為広麻里
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